――ぶ〜〜ん。 ぺしっ。 ――ぶぶ〜〜ん。 ぺしっ。 ぶぶぶぅ〜〜ん。 「えーーいーーっ!!」 かけ声とともに、小夜音はモミジのような手を勇ましく振り下ろした。太ももに炸裂した平手が、ぺちーんと鳴る。 「うきゃっ!?」 次の瞬間、小夜音は夏草の中に倒れこんでいた。スカートがまくれ上がって、女児用パンツが丸出しになる。頭上の梢から降り注ぐ蝉の声が、風景ごと、ぐるっと回転した気がした。 小夜音の傍らで一部始終を目撃していた天彦は、一瞬、助け起こそうか迷うように手を伸ばしかけたが、結局、助けないことに決めたらしい。腕組みをして、ふんと鼻を鳴らした。 「ぶざまだね。『うきゃっ』って、サルみたい」 小夜音は、「う〜」とうめきながら、草の中から顔を上げた。本人としては、「冷たい友達をキッと睨んでいる」つもりなのだが、鼻の頭にくっついた土と、潤んだ大きな瞳のせいで、およそ迫力に欠けている。 「サルじゃないもん」 「蚊は、退治できたの?」 「えっと……」 小夜音は体を起こし、右手を広げた。小さな掌は少し赤くなっているだけで、蚊の痕跡はない。太ももを確認すると、そこでは早速、虫刺され痕がぷっくり腫れ上がり始めているところだった。 「逃がしたみたい……」 「どんくさいね」 肩を落とした小夜音を、天彦が鼻で笑う。小夜音は涙目で、お尻を地面につけたまま、手足をばたばたさせた。 「ヒコのいじわるー! かゆいー、かゆいよー、もう10か所くらいさされちゃった、うわーん」 「へんな動き。おどってるの?」 「動いてたら、蚊も来ないかなと思って」 「……ばかみたい」 人形のようにきれいな顔をして、天彦はにべもない。しかし小夜音は、幼なじみの非情さに傷ついている場合ではなかった。 「どうしよう、このままびっしり蚊にさされてったら、わたし、フジツボみたいになっちゃうのかなあ……こわいよう……」 豊かすぎる子供の想像力で、「虫刺され痕を全身にフジツボのように貼り付けた自分」の姿をリアルに思い描いてしまったらしい。小夜音の顔が恐怖に歪んだ。 「うわーん、朋くん、雄大、はやく来てー!」 ――時間は、夏休みはじめの午前中である。 今朝、ラジオ体操の後に、小夜音・朋来・雄大・天彦の幼なじみ4人は、「朝ごはんを食べた後に、どんぐり林に集合して、セミ捕り大会をしよう」と約束をした。 どんぐり林は、木立に囲まれて真夏の昼でもひんやりした、彼らの遊び場である。蝉も大量にいる。しかし、どんぐり林に生息する昆虫は、蝉だけではなかったのだ。 林の中には、蚊がうようよ飛んでいたのである。 それを予見できなかったのが、子供の浅はかさであろう。早めに林についた小夜音は、見事に蚊の餌食になっていた。一生懸命叩こうとするのだが、蚊はするすると掌の下をくぐり抜けていってしまう。第一、数が多すぎて、一匹二匹を撃滅したところで、蚊は尽きない。 小夜音の柔らかい肌は、すでに何か所も真っ赤に腫れ上がっていた。元々、刺されると腫れる体質なのだ。 「そんな手足をむきだしにする服をきているからだよ」 天彦が指摘した。小夜音の服装は、タンクトップにひらひらしたミニスカート。小学生女子の夏の装いとしてはの標準的だが、蚊からすれば、喰いたい放題の露出度である。 「それに、蚊なら、前の年もいたじゃない」 「そうだけど……前は『シュー』してたんだもん」 「シュー」というのは、虫よけスプレーのことだ。 「なんで、今日はしてないの?」 「わすれたの……」 夏休みが始まったという解放感で、去年の夏、同じ場所で蚊に悩まされた過去など、きれいさっぱり忘れ去っていたのである。天彦は再び、鼻で笑った。 「ばかだね」 「ばかじゃないもん、わすれてただけだもん!」 言い返してから、小夜音は、あっと何かを思いついた顔になった。 「そうだ、ヒコはシュー持ってる? 持ってたらかして」 「持ってないよ」 「えー? でも、ヒコ、蚊にさされてないよね? シューしたからじゃないの?」 天彦は、洒落たTシャツにコットンの長ズボンという服装である。小夜音より露出は少ないとはいえ、二の腕はむき出しだ。なのに、白い腕には、虫刺されの痕ひとつない。 「してないよ。しなくても、ぼくは蚊にさされたことは一度もないから」 えーーっ、と小夜音は高い声を上げた。 「うそだあ、蚊にさされない人なんて、いないもん!」 「うそじゃない」 と、天彦はむっとした顔になる。 「大人は、体質だって言ってた。瀧中の家には、たまに虫を寄せない体質の人間が生まれるんだって」 言われてみると、たしかに、内から光が差すような天彦の白い肌は、何者も寄せ付けない清浄なオーラを放っているようにも見える。後年、この肌が異性という名の虫を寄せまくるのだが、それはそれでまた別の話である。 「うそだー、信じられない」 「ほんとうだよ。ほら」 天彦は、小夜音の後ろに腰を下ろすと、背後から体を抱きかかえるようにした。 「きゃー、なにー?」 「実験。こうやってくっついていても、ぼくの方には蚊は寄ってこないから」 「あっ、じゃあ、ヒコの蚊のバリヤーで、わたしにも蚊が来なくなるの?」 嬉しそうな小夜音の後ろで、天彦は人の悪い笑みを浮かべた。 「さあ……それはどうかな?」 そのまましばらく、二人はくっつきあったまま、無言で木洩れ日を眺めていた。 濃い影の中に、強い草のにおいが充満している。 蝉の声がうるさい。 生ぬるい体温が、触れ合った肌から流れてくる。 小夜音が、居心地悪そうに身じろぎをした。 「……くすっぐたい。あと、あっついよ」 「かゆいよりマシでしょう?」 「う、うん……」 甘酸っぱい夏休みの1ページである。しかし、そんな時間は長くは続かなかった。 ――ぶ〜〜ん 「あ! 蚊! 蚊が来た!」 蚊は、迷うように、子供達の周りをしばらく飛び回り、それから、天彦の腕に止まった。 「ヒコに止まった!」 「だいじょうぶ。さされないから」 その言葉通り、蚊は天彦の肌の上を這っただけで、それが獲物とは認識できなかったのか、血を吸わずに飛び立っていった。そして――。 ――ぶ〜ん。 「ああっ!」 蚊は、小夜音の腕に止まった。その腹がぶくぶくとふくれていく。一拍おくれて、小夜音がそこに思いきり掌を叩きつけた。 ――ぶ〜〜ん。 「また! また逃がしたよう〜。なによ、ヒコといても、ヒコはさされれなかったけど、わたしはさされるんじゃない、ずるいー」 「ざんねんだったね」 ふふんとヒコが笑った。その時。 「悪霊退散!」 意味不明の大声が、どんぐり林に響いた。 小夜音たちが振り返ると、林の入り口に、幼なじみの朋来の姿があった。 けわしい顔をして、小さな背中にキャンプにでも出かけるような大荷物を背負い、左手には捕虫網、右手に持ったキンチョールを天彦のいる方に噴射しているという、さながらゴーストバスターズのようないでたちである。 「朋くん!」 小夜音がぱっと顔を輝かせて、立ち上がる。対して天彦は憤然と、仁王立ちになった。 「ちょっと。殺虫剤は、人に向けたらいけないんだよ。そんなことも知らないの?」 距離があったために、実際は噴射気体は天彦までは届かなかったのだが、それにしても危険な行為であることは間違いない。 しかし、天彦の非難に対して、朋来は堂々と胸を張った。 「知っている。でも、殺虫剤は、悪い虫に使うものだ。ヒコは、小夜ちゃんにつく、悪い虫だ。だから、殺虫剤をヒコに使うのは、正しいことだ」 小学生のこねる理屈とも思われない。当然ながら、天彦は怒った。 「ぼくは虫じゃない」 「あのね、朋くん」 と、にらみ合う二人の間に、小夜音があわてて割って入った。 「ここ、蚊がいっぱいで、わたし、ブチブチにさされちゃったんだよ。でも、ヒコはぜんぜんさされないっていうから、蚊よけパワーを分けてもらってたの。ヒコは、蚊が寄ってこない体質なんだって。すごいねー」 その言葉を聞いた途端、朋来は心配そうに眉根を寄せた。 「小夜ちゃん、刺されたの? まって」 と、背中のリュックを下ろすと、ごそごそと中身をさぐる。 「はい。ムヒ、持ってきた。塗ってあげる」 「えっ、自分で塗れるよ……ひゃ! くすぐったーい」 腕にムヒを塗られて、小夜音はきゃーきゃー声を上げた。まるで、渚でサンオイルを塗りっこするカップルである。ヒコは不機嫌そうに腕を組んだ。 「朋って、小夜ちゃんのゲボクみたい」 「下僕」の意味をわかっているのかいないのか、これまた小学生とも思えない憎まれ口である。 しかし、朋来はそれを完全にスルーして、小夜音の腕と首にムヒを塗っていった。脚はさすがに小夜音が自分で塗るが、完全に二人の世界だ。 「小夜ちゃん、かゆいの、マシになった?」 「うん、ありがとう、朋くん」 「虫よけスプレーも持ってきたんだ。つかって」 「わー、『シュー』だ!」 「蚊取線香もある」 「朋くん、いろいろ持ってるねえ。ドラえもんみたい」 「本当はもっと早く来たかったんだけれど、倉庫を探していろいろ準備していたら、遅くなった。ごめん」 と、朋来は痛恨の表情で頭を下げた。下手に頭が回るために、さまざまな事態に備えてしまうタイプなのである。 もっとも、朋来が呑気に蚊対策を立てている間に、小夜音と天彦がこの暑さをものともせずくっつき合っていたというのは、彼としてはまことに不本意かつ本末転倒なことではあった。世の中には、入念な準備より迅速な行動が優先される場面があることを、この日、朋来は幼いなりに悟ったのである。 「……この緑のものは、何? まさか、蚊帳?」 と、むっとしているのにも飽きたらしい天彦が、朋来のリュックの中身を指して尋ねる。朋来は頷いた。 「そうだ」 「カヤ? カヤってなーに?」 「メッシュのテントみたいなものだよ、小夜ちゃん。蚊が入って来れなくなるんだ」 「へー、テントなんだー! たのしそう、見せて見せて」 「うん。小夜ちゃん、そっち持って。ヒコはこっちの端をたのむ」 「あ、ヒモがついてる。ぶらさげるようになってるんだね」 3人が蚊帳を広げてわいわいやっているところに、バタバタと元気のいい足音が聞こえてきた。 「みんなー、見てくれよ! こんなん見つけた!」 と、林に駆け込んできたのは、幼なじみの最後のひとり、雄大である。どうやら、ここに来るまでに寄り道してきたらしい。髪や服のあちこちに葉っぱや草の実をくっつけている。 真っ黒に日焼けした顔に白い歯をこぼしながら、雄大は、得意げに右手を掲げて見せた。 「セミヌードだ!」 林に、奇妙な沈黙が落ちた。 それから、先に来ていた3人は、いっせいにツッコミを入れた。 「それ、セミヌードじゃなくて、セミのぬけがらだよ」と、基本的な点を指摘する小夜音。 「下品だね」と顔をしかめる天彦。 「セミのぬけがらは、セミがぬいだ服みたいなものだ。ヌードは、むしろ中身のセミの方だと思う」と言葉の理論的欠陥を衝く朋来。 三人三様のツッコミを受けて、雄大は、「いっぺんに言うなよー」と笑っていたが、急に真顔になった。くりくりした目が、何かを見つけたように宙に据えられる。 ――ぶ〜ん。 ――ぶぶ〜〜ん。 ――ぶぶぶぅ〜〜ん。 「蚊だ」 呟くと同時に、雄大は、右手に持った蝉の抜け殻をまっすぐ上に放り上げた。そして、カラになった両手を一閃させると、 ――ぱぱん! 素早く宙で柏手を打ち、上から落ちてきた蝉の抜け殻を、ぱしっと受け止めた。雄大以外の3人は、呆気にとられている。 「へへ。蚊、やっつけた!」 と、得意顔で突き出された掌では、なんと、3匹の蚊が臨終を迎えていた。おお〜〜っと、幼なじみ達の間から、感嘆と拍手が上がる。 「すごいっ。雄大、すごい!」 「曲芸だね。宮本武蔵みたい」 「あ、ムサシ、わたしも知ってるよ。蚊をおハシでつまんだ人だよね?」 「いや、つまんだのは蚊ではなくハエだったはずだ、小夜ちゃん」 「へへっ、これぐらい楽勝だぜ〜!」 と、雄大は鼻をふくらませた。自慢するだけのことはあるだろう。 「雄大がいれば、蚊取線香、いらないねえ」 小夜音がしみじみ呟いた言葉に、朋来と天彦はうんうんと頷いた。 「そうだね、蚊、まっすぐ雄大の方にとんでいったから。僕とぎゃくに、蚊に好かれる体質なんだろう」 「しかも、寄ってきた蚊を、確実にしとめられる。人型蚊撃退システムだ」 蚊取線香だの撃退システムだの、友達に対して、言いたい放題である。しかし、雄大は気にする様子もなく、けろりと笑うと、幼なじみ達に合流した。 「俺、もてもてだな! なあ、その手に持ってるやつ、なんだー?」 「蚊帳だよ」「カヤってなんだ?」「木の間からつるして、テントみたいにするんだ」「蚊が入ってこないのよ」「おもしろそうじゃん、やろう、それ!」「うん、そっち持ってー」。 4人は、木に登ったり大騒ぎをしながら、木々の間に蚊帳を吊った。 15分後には、幼なじみ4人は、蚊帳の中で体育座りになり、蚊取り線香も焚いて、満足げに緑のメッシュごしの空を見上げていた。 朋来が、ふと言った。 「……そういえば、今日は、セミとりに来たんじゃなかったっけ?」 雄大が声を立てて笑った。 「あーっははは、そういやそうだっけ! カヤの中にいたんじゃ、セミとれないなー。どうする?」 一同は、顔を見合わせた。 「まあ……いいんじゃない?」 「うん、いいよこれで。だって、なんかたのしいもん!」 子供達の笑い声が、林の中にこだました。 7月23日 はれ 今日は、お友だちといっしょに、林にカヤをつって、あそびました。 かとりせんこうも、つけました。 カヤの中で、話したり、うたったり、おかしをたべました。 カヤはみどり色のメッシュで、すずしいです。木にカヤをくくるのが、ちょっと大変だったけど、またしたいです。 とても、たのしかったです。 (先生のコメント)たのしそうですね。カヤがすずしくて、よかったね。 |
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