菓子函 〜ロジカル・バレンタイン〜 1
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「小夜音さん、バレンタインはどうなさいますの?」
 ガタン。
 椿さんがそう尋ねた拍子に、電車が大きく揺れた。鉄橋にさしかかる、この場所でいつも電車は軋んだ悲鳴を上げて傾く。毎日の通学でそれは充分承知しているはずなのに、私はいつもその度に、たたらを踏んで吊り革にしがみついてしまうのだ。
 ──踏ん張りが足りねえんだろ? 下半身にもっと筋肉つけろよ。
 二人で街まで出かけた日、雄大はそう言った。
 ──ぼーっとしてるせいでしょう。外ばかり眺めているから。
 たまたま学校からの帰りが一緒になった日、ヒコはそう言った。
 さすが幼なじみ、と言うべきなのかな。二人とも的を射たことを言ってくれる。筋力がない上に、車窓に目を奪われすぎるのが敗因なのよ。わかってはいるんだけれど、仲々直らない。季節ごと、時間ごとに移り変わっていく風景は魅力的で、目を逸らそうにも逸らせるものじゃないから。
 寒の冴えを残しながらも川原にあたたかな陽光を投げかけている、立春の空から目を戻して、私は椿さんの方を向いた。

「バレンタインはどうするって……えーっと一応、何人かにチョコ上げる予定、だけど……」
「まあ!」
 椿さんは目を輝かせると、全校礼拝の時みたいに両手を胸の前で組み合わせた。彼女はこういう女の子イベントの話題が、殊の外好きなのだ。
「よろしかったら、誰に差し上げるか、教えていただけませんこと?」
「うーん……うん、いいよ。椿さんなら。えっとね……」
 私は宙を見上げながら、指を折った。
「お父さんには、国際便でもう送ったでしょ。それから、バイオリンの先生と……三浦先生はどうしよう? 数学部のみんなで上げるから、いらないかな?」
「いりません。あんな無責任教師には、薄利多売の愛で充分です」
 細い眉をつり上げて、椿さんがやけに切り口上に断言する。三浦先生は数学部の顧問で、私も椿さんもお世話になっている。面白くていい先生だけれど、ちょっといい加減なところもあって、真面目な椿さんにはそこが気に入らないみたい。
「ふふ、椿さんやっぱり三浦先生には厳しいんだね。じゃああとは、雄大とヒコとトモくん……全部で五人ね」
 椿さんは首を傾げた。
「ユウタとヒコとトモくん……というのは、お友達ですか」
「うん。雄大とヒコは幼なじみで、トモくんは最近知り合いになった子」
「そうですの」
 椿さんは頷くと、ぐっと私に顔を近づけて、声をひそめた。
「それで……その中に、本命の方はいらっしゃいますの……?」
 その、あんまりにも期待に満ちた言い方がおかしくて、私は声を立てて笑った。
「ふふふ、どうかなあ。いるような、いないような……びみょー、な感じ」
「はあ。びみょー、な感じ、ですか」
「うん。びみょー、な感じ」
 椿さんはしばらく沈黙した。電車の揺れるリズムに混じって、前の席の人がメールを打つ、ピ、ピ、ピ、と不規則な電子音が聞こえてくる。
「小夜音さん、それはまさか……小夜音さんに限ってそんなことはないとは信じていますけれど、まさか三つ股をかけている、ということではないでしょうね……?」
 痛いところを衝かれて、私は目を伏せた。
「三つ股なんて……そんなつもりはないわ。私、誰ともつきあってないもん。でも……」
「でも?」
 私は顔を上げた。そうよ、この際思い切って言ってしまおう。後戻りできないよう、自分を追い込むためにも。
「でも……でもね、最近なんか宙ぶらりんっていうか……今のままの状態が辛く、なってきて。そろそろはっきりさせたいなあ、とは思ってるのよ」
「はっきり、というのは……誰かと交際なさる、という意味ですの?」
「うん」
 私は頷いた。頬が熱い。
「それは……ユウタとヒコとトモくん、でしたか? そのお三方のうちのいずれかと?」
「う……うん。バレンタインの日に、告ろうかな、って……」
 椿さんは再び、まあ!と叫んで、組んだ両手を揉みしばった。
「では、今度のバレンタインは一大イベントではありませんか! それで? それで、小夜音さんのお相手は……小夜音さんがお好きな方は、どなたですの?」
「…………みんな、好き」
「は……?」
「だから、その……まだ誰に告白するか、決めてないのよう」
「……………………」
 椿さんは右斜め下を向くと、長いタメを取って、嘆息した。
「小夜音さん……悪女って呼んでも、よろしい?」
「ううっ……」
 さすがに傷ついて、私は胸元を押さえた。マンガなら、「ぐさっ」っていう効果音と一緒に、ナイフが刺さっているところよ。ちょっと涙目になりながら、私は椿さんを見上げた。
「だって、ほんとにみんな好きなんだもん! そんな簡単に決められないわよーっ。ああもう、数学の問題の方がよっぽどラク。十四日までにこの問題にちゃんと『解』出さなきゃいけないなんて、考えただけで頭ぐるぐるしてきて、熱出そうなんだからぁ!」
「はあ……つまり小夜音さんは、今度のバレンタインまでに、その難問の「解」を導いた上で、三人のうちのお一人に本命チョコを渡す覚悟だと、そういうことですのね」
 と、こめかみを押さえながら、椿さんが言った。うん、と私が頷く。
「ただね、本命が決まっても、実はもう一つ……頭の痛い問題があるのよ」
「なんでしょう」
「……えーと……」
 私は言い淀んだ。
「こ、これを言うと、また呆れられそうなんだけど……」
「それは、是非ききたいですわ」
「だけど……」
「ここまで言っておきながら話さないなんて、生殺しです。さあ、話して下さい」
「わ、わかったわ。……あのね、たしか三人の中にチョコが嫌いな子がいたはずなんだけど……それが誰だか、うっかり忘れちゃった、のよ。実は」
 言いおわった瞬間に、私は後悔した。あーーん、椿さんのこの目! 呆れてる、やっぱり呆れてるようーーーーっっ。
「そっ、そりゃあ、自分でも馬鹿だと思うわ。馬鹿だと思うけどっ、でも、なんでだか思い出せなくなっちゃったんだから仕方ないじゃない! ……どうしたのかなあ、なんか最近、特に幼なじみのことになると、記憶が混乱することが多くて……ねえ、これってやっぱり若年性ボケ? 『家庭の医学』一晩中検索したけど、よくわからなくて。椿さん、どう思う?」
 と、真剣に悩む私から目を逸らして、椿さんは眉をひそめた。
「……それは、もしかしたら例の……の影響……」
「例の? 例の何? 椿さんもしかして、若年性ボケに詳しい?」
 椿さんはむっとした様子で、サイドの髪をかき上げた。
「どうして私がそんなことに詳しい道理があるのです。……まあ、たまにはそういうことも起きますわ、あまり気に病まないのがよろしいでしょう。第一、悩むくらいなら、チョコレートがお好きかどうか、ご本人に直接確認すれば済むことではありませんの」
「それは私も考えたわよ。でも……直接きいたりしたら、『なんだそんなことも知らなかったのか』って思われて、好感度下がりそうじゃない……?」
 椿さんはハタと思案顔になった。
「たしかに……。では……そう、全員にチョコ以外のものを……例えばクッキーを差し上げるという手は、いかがです?」
「それがね、クッキーが嫌いな子もいた気がするんだ、これが」
「いっそ、年の数だけ豆を贈ってみては」
 なんだか段々椿さんの応答が投げやりになってってるような気がするのは、気のせいかしら。
「椿さん、節分と間違えてるよ……。第一、豆で告白なんて、いくらなんでもロマンなさすぎじゃない。生まれて初めて男の子に告白するんだもん、できればちゃんとチョコ上げたいわ」
「あちらを立てればこちらが立たず、ですか」
 椿さんはため息とともに頭を振った。まっすぐな長い髪がさらりと揺れて、窓の外からの光を鏡のように反射させる。
「厄介ですわねえ……。なんとか相手の気分を害さずに、うまく全員のチョコレートの好き嫌いをききだす方法があれば、よろしいのですけれど」
「あるかなあ、そんな方法」
 私もため息をついた。
 どう考えたってそんな方法、あるわけない気がしていた。その時は、まだ。


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